コウノ アスヤ(です。いつもありがとうございます。

今年の7月17日、当時任天堂の社長だった岩田聡氏がお亡くなりになりました。悲しみに沈んだゲーム業界でしたが、それでも時間は進んでいきます。岩田社長は、その凄まじい経営手腕も然ることながら、本人自身も生粋のプログラマーでありゲームクリエイターでした。今日は、岩田社長自身が実際にプログラミングし、コードを書いたゲームをご紹介していきます。

直接!書いたんですよ

ピンボール – 1984年

親の反対を押し切って、HAL研究所(通称ハル研)にアルバイト入社した岩田社長は、元々プログラミングが大好きだったこともあって積極的に事業に参加。ファミコ用ソフト、ピンボールのプログラミングを行いました。

ゴルフ – 1984年

ファミコンのゲームとしては初のゴルフゲームでした。マリオに超似ている「おっさん」というキャラが有名ですね。笑

バルーンファイト – 1985年


主人公のふわふわとした動きは、当時の技術としては凄まじいものだったらしく、スーパーマリオの水中ステージの参考になったそうです。
ゲームセンターCXに登場したときは、自らがプログラミングしたソフトを喜々としてプレイされていました

ファミコングランプリII 3Dホットラリー – 1988年


専用ゴーグルをかけると画面が立体的に見える「ファミコン3Dシステム」に対応してました。時代先取りすぎる。

Dragon Warrior(北米版ドラゴンクエスト) – 1989年


実は、ドラゴンクエストが北米で発売される時に、ローカライズ作業を担当したのは岩田社長なんです。ここにも彼のコードが。

メタルスレイダーグローリー – 1991年


ハル研がソフトメーカーとして発表した最後の作品。メインのプログラマーは別の方ですが、クレジットに名前が入っています。

星のカービィ – 1992年


スマブラで有名な桜井政博さんがゲームデザインを担当した初代カービィ。この時、岩田社長は既にハル研の社長でした。(日本語が変ですが)

MOTHER2 ギーグの逆襲 – 1994年


開発中止寸前だったところにプログラマー兼プロデューサーとして参加。「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」は名台詞。

ポケモンスタジアム – 1998年


バトルのロジックに使用するために、ゲームボーイ版のポケモン赤翠の難解なコードを解析・移植しました。ゲームフリークの森本茂樹氏は、「あの人は…プログラマーなのか?社長なのか?」と驚いたそうです。

大乱闘スマッシュブラザーズ – 1999年


このゲームの試作品である「格闘ゲーム竜王」を社内コンペ用に作った際に、その全てのプログラミングを担当していました。人手が足りなかったそうです。笑

大乱闘スマッシュブラザーズDX – 2001年


既にハル研を離れ、任天堂経営企画室長になっていた岩田社長は、このままでは発売日に間に合わないという事態になったため、コードレビューやデバッグなどを自ら手がけたそうです。しまいには開発の指揮をとり、発売日までに完成させました。これが、彼のプログラマーとして最後の仕事となったそうです。

任天堂の全てのゲームに、彼の精神が入っている

これ以降のゲームに関しては、岩田社長自らがコードを書いたゲームはありません。しかし、ゲームを愛し、人を喜ばせる事を心から楽しんだ彼のクリエイターとしての精神は、後に任天堂から発売される全てのゲームに注ぎ込まれています。沢山のゲームのエンドロールに、彼の名前があります。2005年に開かれたゲームデベロッパーカンファレンス2005の講演では、
わたしの名刺には社長と書いてありますが、頭の中はゲーム開発者です。でも、心はゲーマーです」と語った岩田社長。あなたはいつまでも、ゲーマーの心とともにあるのです。

さて、どれから遊びなおそうかな。