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【感想】映画「ビッグ・アイズ」を美大卒の新米デザイナーが観たら”心が打ち震えた”話。

ビッグアイズ

こんにちは、Cafficeという新宿のカフェがWi-Fiと電源完備でコーヒーも美味いから使いまくってますコウノ アスヤ(です。

先日、ティム・バートン監督の最新作「ビッグ・アイズ」を見てきました。
ティム・バートン監督といえば、僕はリアルと幻想の境目を親子の関係から美しく描いた「ビッグ・フィッシュ」が大好きなんですが

今回の「ビッグ・アイズ」は幻想ものではなく、俗に言う「伝記映画(ノンフィクションもの?)」で、紛れも無く「リアル」を題材にした映画
普段は不気味で楽しいファンタジックな世界を撮る彼が、リアルな話をどう演出して楽しませてくれるものかと超楽しみにしていたんですが、いやはや、やられた…。

見終わった後しばらく、心と身体がずっと熱いままでした。(ただの風邪説あります)

美術大学に4年間通い、「ものを作る」という行為をどうしても大好きには成りきれないまま新卒でデザイナーとして働き始めた僕が、超個人的な感想を垂れ流そうと思います。

僕はこの映画で、「ものを作る(生み出す)こと」そして「人々に愛される(売れる)こと」の2つの考え方を大きく揺さぶられました
少しの間、駄文にお付き合いください。

あらすじ


あらすじは、こんな感じ

1950年代から1960年代にかけて、哀愁漂う大きな目の子供を描いた絵画「BIG EYES」シリーズが世界中で人気を博す。作者のウォルター・キーン(クリストフ・ヴァルツ)は一躍アート界で有名人になるものの、何と実際に制作していたのは内気な性格の妻マーガレット(エイミー・アダムス)だった。自身の感情を唯一表現できるBIG EYESを守るため、マーガレットは自分が描いたという事実の公表を考え……。

Yahoo!映画より

自分で絵は描かないが、圧倒的プレゼン力と商売力でビッグ・アイズを世に広めたウォルター」と「プレゼン力と商売力は皆無だが、画家としての才能を持ち、生み出す作品は人々の心を掴むマーガレット」が対比されたストーリーになってます。

映画としては、「作る者と売る者」という関係を「夫と妻」という関係で語っていて、これが当時の社会性、すなわち「一家の決定権を持つ夫」と「それに従う妻」という所謂ジェンダー的な切り口にもなっていてとても良い。

そのあたりは「思い出のマーニー」「アナと雪の女王」「マレフィセント」的であり、昨今の「女は守られるだけの存在じゃないんだぞ時代」の流れを考えると、語り口と公開時期は本当に今しか無かったんだなと思いました。
素晴らしすぎました。

構造的な部分と、物語的面白さは言うまでないんですが、僕が今回痺れたのは、ウォルターとマーガレットの関係が、作り手、そして売り手の視点的に割りとエグいレベルで描かれていたからです。

ビッグ・アイズは「ものを作ること」そして、それが「人々に愛される(売れる)こと」の難しさ、良さ、悪さ、そしてどうしようも無さを上手く描いてます。
この構造は、デビッド・フィンチャーのソーシャルネットワークにおけるマークとエドワルドにも似ていますね。

デザインとアートの違い

ウォルターとマーガレット
ビッグ・アイズを見て意識させられたのは、「何のためにものを作るのか」ということ。
「君は黙って絵だけ描いてろ、俺が売る」「私だって、自分の作品だって胸を張りたいわ」
この映画は終始、上記の言い分でバトルし続けるお話です。
ファンタジックでもロマンチックでもない、リアルで人間味のある感情をゴリゴリに描いてる点が、あまり今までのティム・バートン作品っぽくない気がしました。
それを考える上では、デザインとアートをちゃんと分けて考えなければいけません。

デザインとアートの違いは、人それぞれ考えが違うと思うので、大体良く聞く一般論としては「デザイン=課題解決、アート=問いかけ」ということだと思います。

世の中にある色んな課題・問題を解決する何かを生み出すのがデザイン、世の中にあるあらゆる課題・問題を人々に問いかけ、意識させるのがアート。

ものを作る人が無意識のうちに苦しむのが、この「デザインなのか、アートなのか」という部分だと思います。

ものを作って食べていく上では、生み出したものが自己満足で終わるのか、誰かの役に立つのかという問題がつねに浮上してきます。
僕が通っていた学科では先生方がそれを口を揃えて僕たちに問うていました。

芸術家は自我が強くプライドが高い

絵を描くマーガレット
映画中でマーガレットやウォルターも言い合っていましたが、芸術家というのは、どうやって「自分の絵を売って、食べていくか」という問題と常に戦っています。
「食っていくのは難しい」とか「自己満足だ」とか言われてしまいがちな世界で、まぎれも無くそれを「自分の作品・アートとしたまま」生計を立てていくのは、本当に困難なこと。

パンフレットでティム・バートン監督自身も口にしています。
アーティストというのは往々にして、言葉で表現できない自分の気持ちや感情を、作品にのせて人々に訴えかけるものだ」と。

乱暴にまとめると、それはアーティストは作品を作るのは上手いが、それを人に伝える(プレゼン)のが苦手だという事。
現に、美術大学で作品のプレゼンを聞いていると、上手い人と下手な人の差が如実に出ます。
生み出す作品の質が高い人は、往々にしてそれを伝えるのが下手、です。

作品に良いところがたくさん詰まっているのに、それを上手く伝えられなくて機会(評価)を損失している事が多々ある気がします。
それこそ、作中序盤で、子供の似顔絵を描くマーガレットの様に。

デザイナーは自我が弱くプライドが低い

場面写真
一方で、プレゼンが上手い人は、往々にして作品のダメなところを上手く隠し、良いところを上手く人に伝えるのが上手です。
言葉の力、そして人の気持ちというものを理解しているからですね。
現代では、そこを得意とする人をデザイナーと呼ぶこともあります。

作中のウォルターは、序盤のシーンで、マーガレットの絵の良さを一瞬で見抜きます。
「君の絵には価値がある」「もっと上手く人に伝えてお金にしろ」と。

まさに、マーケター。デザイナー。商売人です。
その腕があればあるほど、すごくない作品も、客にすごいと思わせて評価させる(売る)のが上手くなります。
言い換えれば、どんなものでも、その人にとって価値のあるものに変えてあげることができるということです。

ただし、プレゼンが上手い人の作品というのは、正直質は高いとは言えず「上手いことまとめたな」という感想を持つことが多かったです。
ちなみに、今回映画を見て、僕は完全にこちら側、ウォルタータイプの人間だと思いました。
(プレゼンとか喋りは全然上手くないですが)

両者は互いに嫉妬しあっている

美大生(ものを作る人)というのは、往々にして自我が強くでプライドが高いです。
それこそ、自分の生活やコミュニケーションに支障を来すレベルで。
その代わり、生み出す作品は質の高いものが多く、教授に納得のいく批評をされたり、誰かから評価されるとやる気がでて次の作品のクオリティも上がっていきます。

一方で、プライドが無いに等しいが、自我も持たないので多くの場面でそれなりに上手くやる人も存在します。
そういう人は、極端にプライドが無いため、コミュニケーションや生活はストレスなく上手くやりますが、そんな自分を認めているため、短時間で大きく成長する事が無いです。

美大生(主語を大きくすると、ものづくりをする人)というのは、大体上記の2パターンに分類することができると思います。
(生み出す作品も素晴らしく、かつそれをプレゼンするのも上手い人っていうのは、本当に本当に少ないです。
というか、居ないのでは…?)

そして、両者は互いに、自分のもっていない部分を嫉妬し合います。
素直に認められないんです。

才能は、二兎を追えない

僕は、高校生の時や美術大学にかよっているときは、マーガレットのような人にあこがれていました。
すなわち、魅力ある作品を作り、そしてそれが褒められる人物
そして同時に、ウォルターのような人にも憧れていました。
作品の良さを魅力的に人に伝え、そしてそれを商売につなげられる人物

でも、2人をミックスしたような人には、本当になれないんです。
相当な才能か、並々ならぬ努力をするしかない。
それには、自分の非や足らないところを素直に認めていく強さが必要です。

この映画を見ていると、常に「そう、そうなんだよ!やっぱそこはプライドが…」「あぁ!でも、うん、売れないと話にならないよね…うん」「いや、つったってこれって俺の作品だろ?」「あー!結局は大衆が喜ぶものを作らないといけないんだ…」「いや!やっぱ自分の色を打ち出していくべき」
とか、思考がぐちゃぐちゃしました。

実際に有名な画家やアーティストだって、有名になるには誰かの手を借りています。
スティーブ・ジョブスだってそうです。
Apple Iを作ったのは、もう一人のスティーブの方ですよね。

ちなみに、現代ではこの「誰か」が「インターネット」にすり替わっているので、一人で「成功しているように見える」人はたくさんいますけど。

「売れるもの」を「生み出す」ということ

芸術家もデザイナーも、食べていかなければいけないのでお金が必要になってきます。
アーティストは自分の作品を売るために自我を弱めるのを嫌い、デザイナーはアーティスト程の個性を作品に出したいと常に悩みます
マーガレットは、もっと自分の絵を書きたい、名を馳せたいというプライドと戦い、ウォルターは、絵をかけないプライドを振りかざして自分の絵だと言いはります。

両者は見事に、「作り手」と「売り手」すなわち「アーティスト」と「デザイナー」です。
それぞれの、得手不得手、そしてそれをコンプレックスに思う気持ちと、でもそれじゃ上手くやっていけない気持ちとの挟み撃ちにあっている二人を見ていると、もうなんだか、心が打ち震えました。

デザイナーとして仕事をしていると、「もっとこうしたい」「こっちの方が綺麗」といったアーティスト的な気持ちが芽生えてきます。
けれど、仕事として考えると「ちょっとダサくでも、クリック率やユーザーの満足度など、数字が大きくなる方が正解」という世界で生きていかなければいけないので、そこで悩んだりします。

マーガレットも、凄腕の売り手に従い、不本意な作品作りを続けていましたが、上記のような気持ちになっていたのでしょう。
結局は、アーティストも「売れる」という世界に若干の譲歩が必要で、デザイナーも「作る」という部分に関して譲歩をしなければいけないんですね。

自分の強みと弱みを理解して、誰かと一緒に、互いにそれを理解しあって事を成すのか、一人で上手くバランスをとって人を引き連れて事を成すのかは、それこそ人や場合によって柔軟に変えていかなければいけません。

ものを作る(売る)全ての人に超オススメ!


この映画の上手いところは、ウォルターを完全な悪者だとは言い切れないところです。
結局のところ、ビッグ・アイズが売れた(多くの人々に愛された)のは彼のおかげだし、ウォルターが敗訴してからマーガレットが画家として生活を続けられたのも、数年間にわたりウォルターが必死でビッグ・アイズを世に広めたから。
言ってしまえばマーガレットは死ぬまで、ウォルターの残したお釣りを使い続けているイメージです。(それが良い悪いは誰にも判断できないですが)

大切なのは、それぞれの、得手不得手を理解し、尊重し合い、お互いに助け合う事だと思います。
(月並みな表現ですが笑)

それは、互いを完全に理解し合うことはできない、という事を理解する、ということでもあります。
もし、ウォルターとマーガレットが上手く行く方法を模索するとすれば、
ウォルターは絵の作者をマーガレットだと公言し、マーガレットの弱い部分を補うようにするか、マーガレットが完全に作り手に周り、ウォルターの弱い部分を理解してあげるかの2択だったんじゃないかと思います。

とはいえ、現代においては、インターネットがあるおかげでかなりこの「作り手」「売り手」問題にも答えが出しやすい時代になっているとは、思います!

長くなりましたが、なにかものを作る仕事をしている人が、一度は、いやいつも悩んでいる問題を「そうそう、これこれ」とエグいレベルで浮き彫りにしてくれている脚本(というか実話)が本当に素晴らしい。

この映画、本当にオススメです!
あとサントラもメッチャメッチャいいのでサントラもオススメです!

ビッグ・アイズ ORIGINAL SOUND TRACK

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この記事を書いた人

asuyakono

コウノ アスヤ

1992年生まれ、岡山県出身。武蔵野美術大学デザイン情報学科を卒業した後、都内でデザイナーとして活動中。小さい頃からゲーム好きで、四六時中ゲームのことを考えている。

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